整体道場 樹楽塾 身体研究ブログ

身体研究にご訪問いただきありがとうございます。 このブログでは日々、野口整体や武術を学び、皆さんのためになる身体の変化の発見を共有、発信しています。

体育座りが日本を駄目にしたのか?

陰謀論やなんかでGHQが体育座りを広めて日本を駄目にしたのような話があります。


また、正座は膝に悪いだの、腰の強化になるだの

胡座が股関節を悪くするだの色々言われています。


これらは良い悪いではなくて背景と意味を知らなくてはいけません。


体育座りは腰や首、股関節を柔らかくします。

リラックスという面もありますが=受身になりやすいという面もあります。


緊張を解くということは

GHQが洗脳に使ったと言われていますが


正座は腰を固くします。


辛さという意味では罰で使う意味が無いとは言えませんが

腰を固くするということは正座して説教すると反発され、説教としては意味をなしません。


正座が良い体育座りが駄目みたいな白黒ハッキリする事ではなく

相手の意図を読み取る力が必要ですね。

既存の概念に囚われない


柔よく剛を制すにあるように

柔と剛は対比するものとなっています。


ですが実際は柔と剛は相反するものではないです。


柔の中に剛はありますし

剛には柔の概念が必要です。


剛を効率的に発するには柔による反発と弾力が必要なのです。


柔と剛が対比で考えてしまうと可能性を狭めてしまいます。

既存の概念に囚われ過ぎないで守破離が大事ですね。

多様性と自我の喪失

多様性とは混ぜる事ではないです。


何でもかんでも良いとこ取りすれば良いものでもありません。


民間療法と科学療法を混ぜた軋轢を受けています。


民間療法は本来この急所を押さえたらどこが治るのような単純なものではなく

「夜に口笛を吹いたら蛇が出る」のように必ず含みがあるものです。


それを無視して科学的に治らないとか言うのは乱暴ですし、

消えるべき風習を伝統だからと無理に広めようとするのも乱暴です。


お互いに関わる事は新しい価値観を得る事になりますが

干渉するのはお互いに対立する事になります。

もちろん対立することで反発が生まれますので悪い訳ではありません。


多様性が重視され文化が混ざり混沌として自分が何者なのか分からなくなっています。

本来は何者でもないはずですが

一昔前の教育で日本人だからとか男、女だとか

ハッキリとカテゴライズされて生きてきた為

色々なアイデンティティーを奪われる事によって生まれた障壁です。


これらは抑えられてきた反動で現在激しくなっています。


全て自然のままに動いています。


多様性だからこそ個人個人で適当を選んで生きていくのが重要ですね。

暗い人は元気が有り余っている

暗い人や病気の人は元気が無いと言われます。

ですが、実際は逆でエネルギーがありまっており発散出来ない為に暗くなったり病気になります。


エネルギーが無くなったら無になります。

亡くなったら無に返るのです。


治療不能の人が宗教でもなんでも夢中になれるものを得ると病気が治る奇跡は良く聞くとおもいます。


暗いひとが身体動かして明るくなったと感じるのは

もちろん反動もありますが

暗い凝固エネルギーが無くなったからです。


陰陽で分かりやすく表されます。

陰は悪い事

陽は良い事

になってきてしまっていますが

本来は

発散すれば陽

集中すれば陰です。


人間の身体は狩猟採集時代の身体で出来ています。

どんどん便利になる現代社会では生存においてエネルギーの発散がし難くエネルギーが余り陰に傾き易いです。


現代社会において陽、発散は良いことと捉えるのは間違いではないと思いますが

逆説で陰、病気等が悪いことと捉えられてしまうとおかしな方向に行ってしまう事があります。


潜在意識には良い悪い無く、概念に囚われます。

例えば健康になりたいと思っていたら不健康な自分が必ずいますし、

病気になりたくないと思っていたら病気から逃れる事が出来なくなります。


本当に健康な人は健康という概念(ものさし)を持っていません。


とはいえこれらの概念は教育で学ぶので逃れることは不可能です。


ですのでせめて、良いの逆は悪いのような極端な考えになる自分を見つめてみると楽に生きられるかもしれません。

武術的目付の違いから視る文化の違い

私はまだ若輩ですし流派は星の数ほどあり

また文化の交流によって純粋というものが存在する訳もなくよって全て当てはまる訳もなく

偏った見方であるのを考慮した上でお読み下さい


日本武道は宮本武蔵五輪の書を基本とする事が多いので観の眼が使われます。

観の眼とは自然界だと敵対しないということです。


中国武術だと力の方向に眼を向けます。

自分の力が中心であります。

自我が強く表れる技術でもあります。


カポエイラだと相手の眼を見ます。

日本武道とは逆で敵対の意味になりますが

個と個のコミュニケーションということでもあります。


現代は眼と眼を見て話すのが礼儀であったり基本とされています。


一昔前の人間内の階級制度が薄くなってきた事でもありますし、個ということが重要視されている時代でもあります。


何が正しい、良い、正解等は一切無いです。

強いて言えば文化の中に正しい礼儀としてあるくらいです。


意図や環境が違えば文化も違います。

文化が違えば重要視されていることも違います。


多様性が騒がれている昨今ですが

文化の意味も理解できるとより多様性の時代生きていくのが楽になりますね。

世代による価値観の違い

時代による価値観は変わるものです。

そして簡単に変えられるものではありません。

また、変わるのにはそれなりの変化、変動を覚悟しなくてはいけません。


90歳近くの方を観ていると必ず背景にある価値観は戦後の貧しい時代から西洋的物質社会への変化の反動です。


食べるものがなく飢えていた実体験が今でも残っております。

兄弟姉妹が沢山いたのに若くして亡くなった体験と現代において若い人が亡くなる事が少なくなった事が強く残っています。

お腹一杯に食べれる幸福感が原動力になり

自分と同じ思いを子させたくないという思いが強いです。


食べなくては、病院に行かなくてはと不安になってしまうのです。


もう一つ前の世代だと戦争自体の記憶が強いです。

正義や悪、勝ち負けといった価値観が強いか反動で無気力になってた記憶があります。


今の私達からしたら考えられない価値観です。


食べ過ぎだから食べるなと言ったところで何も変わらないのは当たり前です。


長く強い価値観が変わるとなったら変動も計り知れないです。

私達に出来るのは相手の不健康な部分を観るのではなく

元気になるようにしなくてはいけませんね。

人によって態度を変えるのが嫌い


人によって態度は変わるものです。

赤ちゃんと接する時と大人と接する時は当然態度が変わります。

 

この問題は態度を変えるのが嫌いなのではなく

人を人としてみない人が嫌いということです。


その人自身を見ないで肩書き等物で判断する人が嫌いということです。

当然肩書きや物も含めた上でその人になります。


逆に嫌いと言っている人は自己承認欲求が高いのです。

人を肩書きで判断しないでその人自身を見てほしい。

自分自身を認めてほしい表れてでもあります。

そしてそれがコンプレックスな程、相手の態度自体に目が行きます。